教会歴史
福祉プログラム


「福祉プログラム」教会歴史のテーマ

「福祉プログラム」教会歴史のテーマ

福祉プログラム

1831年,ジョセフ・スミスはオハイオ州カートランドに到着して間もなく啓示を受け,その中で,教会は「貧しい者を思い起こし,破ることのできない聖約と証書をもって,彼らに分け与える必要のある分を,彼らの扶養のためにあなたの財産のうちから奉献する」ようにと,命じられました。1主は続けて,余剰のささげ物は集めて「倉に蓄えておき,……貧しい者と乏しい者に与える」ようにという指示を,教会のビショップとその顧問に与えておられます。2その後10年にわたって末日聖徒はオハイオ州やミズーリ州,イリノイ州に集合し,貧しい者と乏しい者の支援は,引き続きシオンの建設に欠かせない側面となっていました。3貧しい者への助けは,教義と聖約の主要なテーマであり,その後の世代の末日聖徒も,このキリスト教徒としての義務を引き続き重視してきました。4

19世紀を通して末日聖徒は,様々な方法で福祉の需要にこたえていきました。その名称から分かるように,ノーブー女性扶助協会は,「貧しい者を助けること」を主要な目的としていましたし,女性たちは,1840年代にその街にたどり着いた貧しい移民たちの世話をしつつ,乏しい人のためのささげ物の調整も行っていました。51870年代までには扶助協会の会員たちは,必要な福祉援助を特定し,援助の手配を行い,穀物を貯蔵し,医療処置を提供することによって,北アメリカ西部のビショップたちを助けるようになっていました。640年間にわたって教会は永代移住基金を実施しており,移民してきた改宗者たちに旅費を貸与し,ソルトレーク盆地に「貧しい者たちが来られるように」していたのです。7ソルトレーク・シティーにある教会本部では,ささげられた物品が什分の一集積所に貯蔵されていて,ビショップが分配できるようになっていました。辺境の地にある定住地でも同様に,地元のビショップの倉に共同体に必要な物品が蓄えられていました。ワードやステークでは定期的に「断食日」を作り,食べなかった食料を什分の一集積所や倉に寄付しました。81800年代後半に新しい産業が起こって地域経済が活性化すると,賃金労働が増え,アメリカ合衆国東部から物品が大量に流入したために新たな市場競争が始まり,物価が上昇して貧しい農民や労働者の生活が脅かされるようになりました。ブリガム・ヤングとその仲間の教会員たちは,「共同制度」だけでなく,末日聖徒の生産者と商人との共同事業も推進していきました。それは,地域の産業を保護するためであり,強引な事業のやり方から貧しい住民を守るためでもありました。9共同制度と共同事業が相まって,1800年代の教会の数多くの福祉政策は実を結び,聖徒だけでなく地域社会のほかの人たちの経済状況も好転したのです。平均的に見て,貧困層は末日聖徒の居住地にいた方が,アメリカ合衆国のほかのどの地域よりも,良い暮らしをすることができました。10

20世紀に入ると,ヨーロッパやアメリカ合衆国の慈善団体はより細やかでシステム化された福祉事業を開発するようになり,行政の機関も福祉サービスを提供するプログラムを開発するようになりました。市民団体の指導者であり,後に中央扶助協会会長を務めることになるエイミー・ブラウン・ライマンは,大学で社会福祉を学び,,扶助協会に新設された社会福祉部で新しい方法の福祉活動を実践しました。組織的に行えば福祉の問題は解決できるとした革新主義時代のそのほかの社会改革者たちと同様,ライマンと仲間の扶助協会の会員たちも,ほかの慈善団体と力を合わせ,福祉サービスの訓練を行うことによって貧しい人たちを助けようとしました。11

1929年と1930年に大恐慌に陥ると,扶助協会とビショップの倉のプログラムは,壊滅的に高い失業率の影響を受けた家族に,直接的な援助を行いました。大恐慌が4年目に入ると,大管長会はパイオニアステークのステーク会長であり,ソルトレーク・シティーの市議会議員でもあったハロルド・B・リーをはじめとする指導者たちを動員して,支援を行うと同時に経済的な自立も促すという,全教会向けの計画を練り上げたのです。12その結果,「教会保全プログラム」が1936年に発表されました。この計画によって,ステーク会長会は地区評議会を立ち上げて地元地域の緊急事態への備えをするよう命じられました。そして,断食献金を奨励し,失業者に職を与えるために何十件もの事業を展開するようになったのです。13

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店の正面

初期のデゼレト産業の店舗の正面

1938年には,教会保全プログラムによって創設された中央福祉委員会が,ソルトレーク・シティーの老朽化した幾つかのビルの復旧作業や取り壊し作業を行って,ウェルフェアスクウェアを建設しました。これは倉の設備のある主要な商工業地域であり,そこには工業規格の地下貯蔵庫や缶詰工場,衣類の縫製・販売所,酪農工場,穀物倉庫,礼拝堂,管理事務所がありました。ユタの北部全域で,困窮している個人や家族にビショップが面接をして,倉の注文書を渡しました。ウェルフェアスクウェアでは,それを使って無料で物品を受け取ることができるのです。1950年代後半になると,一人のビショップがウェルフェアスクウェアの管理の召しを受けて,予約なしの注文と,就業支援を行うようになりました。過剰在庫は全世界のビショップの倉に送られました。14

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ウェルフェアスクウェア

ウェルフェアスクウェアの航空写真。1957年撮影。

第二次世界大戦後,教会は,食糧や衣類を集めて戦争で荒廃したヨーロッパ地域に送る大々的なキャンペーンを行いました。そして,ジョージ・アルバート・スミス大管長は,寄付された物品を,ヨーロッパの各国に送る許可をアメリカ合衆国政府から得たのです。スミス大管長は,作業員たちがウェルフェアスクウェアで発送の準備をしている様子を見学して,その寄付の量を見て涙を流しました。そして,冬用のコートを脱ぐと,それを積み荷に入れたのです。スミス大管長は,十二使徒定員会に召される前は経験豊富な農業関係の行政官だったエズラ・タフト・ベンソン長老を派遣して,ヨーロッパの複雑な救済活動を統括してもらいました。ベンソン長老が,10か月で6万1,000マイル(約9万8,000キロ)という強行スケジュールでヨーロッパ各国を見て回ったところ,立ち寄ったすべての場所で,深刻な食糧難と,住む家のない人々の群れが見られました。帰国するやいなや,「この惨状は,見た者でなければ分からない」とベンソン長老は言い,教会の福祉プログラムの規模を拡大することを決心しました。そして,末日聖徒がさらに備えを拡充して,物資を増やせるよう努力したのです。教会は1945年10月から1949年12月にかけて,600万ポンド(約300万キロ)の食料と衣類をヨーロッパに送りました。15

その後,20世紀から21世紀にかけて,教会は引き続き新しい福祉プログラムを開発して,人道支援その他の社会福祉サービスの規模を拡大していきました。非営利の再生品店であるデゼレト産業は,1938年に第一号店を開いて以来,2022年までに約50店舗を構えるまでになり,寄付された物品を販売したり,仕事を提供したり,就業のための訓練や就職のあっせん,技術面の教育,人道支援を行いました。教会の福祉プログラムの下で,幾つかのステーク福祉委員会が,1940年代に農地の購入を始めました。それは,人々に働く場を与え,ビショップの倉に蓄える食料と缶詰工場に送る材料を生産するためでした。その後数年間で多くの農場は売却しました。生産量が多すぎて倉に入り切れず,缶詰工場の生産能力も超えるほどだったからです。それと同時に,残した農場は,増えつつあたボランティアの労働力で操業する形に変えました。161971年以来教会は,医療従事者を宣教師として召して,病院や診療所その他の,地域に密着した医療施設を作ってきました。この福祉サービス宣教師のプログラムはその後間もなく拡張されて,様々な職種の宣教師が医療や農業,教育,事業の展開,移民や難民の再定住化支援,被災地への直接的な支援を行うようになりました。

1985年には,エチオピアの壊滅的な飢饉に対して,教会は人道的援助基金を創設して寄付を募り,末日聖徒慈善事業団が調整して支援を提供しました。断食の呼びかけを全世界に向けて2度行った結果,教会員からは1,100万米ドルを超える断食献金が集まり,人道的援助基金に加えられました。そこで末日聖徒慈善事業団は直ちに,ほかの人道支援団体と提携して数十にも及ぶ活動を行い,食糧難を解消し,飲料水と衛生設備の拡充に努め,予防接種をして病気の撲滅を図り,緊急時の対応を行い,難民を助け,車椅子や眼科治療を提供しました。2020年に末日聖徒慈善事業団とその提携団体は,160の国と領土の3,600件以上に上るプロジェクトを後援しました。17教会が提供する福祉サービスには,相談に乗ったり依存症克服の助けをしたりするファミリーサービスや,就業や教育,財政面での支援を提供する自立支援サービスもあります。

関連テーマ:「奉献と管理の職」Fasting(断食)」「扶助協会」Great Depression(大恐慌)」Amy Brown Lyman(エイミー・ブラウン・ライマン)」「共同制度」「移住者」